これまでの詩集
柵野初希さんの第一詩集『夢の揺りかご』を刊行しました。「夢の揺りかご」「five years」「ぱす・た」の三つのパートからなるこの詩集は、過去と未来とのあいだを夢のように揺れる時間を独自の感性で捉えています。下に紹介するのは「夢の揺りかご」の第一章ですが、「ゆうやりと」ということばが含意する夢の時間に思わずいざなわれることでしょう。
夢の揺りかご
Ⅰ
深い空
奥の星
揺れる木々や流れる風や
あたたかな海
穏やかな土
見慣れた景色
世界はとても美しい
夢のかごを
ゆうやり満たす
愛しい
時間
川田絢音『ぼうふらに摑まって』
川田絢音さんの新詩集『ぼうふらに摑まって』を刊行しました。
『流木の人』から3年。書かれたことばの後ろにあるものの無量が内蔵された詩集が生まれました。詩とはなにか。その答えのひとつが、ここにあります。ひとりでも多くの人に手に取っていただければ幸いです。
詩集から、一篇の詩を紹介します。 (2012.5.1)
象が渡ってくる
ホー湖へ 切符一枚
乗合いバスに乗る
黄色い蝶はよれよれに
水をたたいても 漁(すなど)るものがない
心の空白を吐きだすのに
時間がかかる
成し遂げられなくて
ここから
ここへ
死んでも旅をつづける
ホー湖は幻のまま
その背丈に人を乗せないで象が渡ってくる
高橋英司『詩集 ネクタイ男とマネキン女』
このたび、高橋英司さんの第七詩集『詩集 ネクタイ男とマネキン女』を刊行しました。思い返せば、高橋英司の第一詩集『出発』が出版されたのは1977年だった。それから、『日課』『青空』……と続いて詩集が刊行されていったが、いま、その頃の詩を読み返してみると、「とにかく生き延びてみようとした」、あるいは「私の日課は/確実に老いてゆくことだ」などの詩句があらためて目に入ってくる。それは、新詩集の冒頭の詩が「ネクタイ男を三十六年続けてきた」という一行から始まることによるのかもしれない。1970年代はじめに詩を書き始めた者のなかには、すでに詩を書くことをやめた者、あるいはすでにこの世を去った者もいる。「時間はすべてを消滅させる」といわれるが、詩に関わった者たちは、詩を通して死を学んでいくのか……などと埒もないことを考える愚生の前に、『詩集 ネクタイ男とマネキン女』はいきなり現われた。この詩集に収録された詩は、どの詩も「現在」に触れている。「ネクタイを外せば明日から/自分は一体何になるのか」という「現在」。あるいは、「久しぶりに日向ぼっこをしながら読書をしていると電話がくる。障子の張り替えをするから、手が空いているなら伝ってくれと兄貴が言う」(「嘘日記」)という「現在」。この、かくも執拗に「現在」を書き続ける精神は何に拠るのかと考えたとき、ふと〈造形〉への意志ということばが思い浮かんだ。だが、いまはもうこれ以上駄弁を弄するのはやめたい。次に一篇の詩を紹介する。これは詩集の巻末に置かれた散文詩だ。「首を縦に振るか横に振るか迷っていた。」という「私」のことばに「現在」を見出すとき、それはまたわれわれの「現在」でもあると思われてくるのである。 (2011.12.30 岡田幸文)
腕立て伏せ 高橋英司
小さなバーでちびりちびり酒を飲んでいると、軍服姿の
一団がどやどやと流れ込んできた。店内はその一団だけ
でたちまち一杯になった。戦争ごっこ好きのコスプレ集
団がオアソビを終えて、これから一杯引っかけようとい
うのだな、と思った。私は急に居心地が悪くなって早々
に退散しようと思った。店内は男たちの声で騒々しく、
流れているはずのBGMも聞こえないほどだった。中で
も、背の低い男が妙に甲高い高笑いをするのが耳障りだ
った。リーダーらしきその男の顔を一瞥して、私はぎょ
っとした。三島由紀夫だった。すると周囲の若者たちは
楯の会のメンバーだと知れた。三島の隣に座っている物
静かな男が森田必勝なのか。やがて、私の視線に気づい
た三島氏が、やおら立ち上がり私の方へやって来た。私
はわけもなく身構えた。君、腕立て伏せは何回ぐらいで
きるかな? この連中はせいぜい百回ってところだが、
百回を超えたら、君も仲間に入れてあげるよ、と三島氏
は言った。唐突な問いかけに私は面食らった。作家・三
島由紀夫を尊敬していないわけではないが、何の理由も
なく腕立て伏せ百回とは何事か。押し黙っていると、さ
らに三島氏は、ぼくもやるから一緒にやろう、と言って
きた。三島氏は床に手を着き、私を待っている。私はや
むなく上着を脱ぎ、シャツの腕をまくって、床に這い蹲
った。では、はじめるとしよう、と三島氏は言った。楯
の会のメンバーがグラスを持ったまま集まってきて、声
を合わせて数をカウントした。イーチ、ニーィ、サーン、
シーィ、……。三十までは何ともなかった。五十を過ぎ
たら、腕がカチカチになって屈伸のスピードが極端に落
ちた。六十四回で私はダウンした。三島氏はまだまだ続
くようだった。いくら鍛え上げているとはいえ、文士風
情に腕立て伏せで敗れたことが、私には屈辱だった。起
き上がると、三島氏は、君、入隊しないかね、君はもっ
と体を鍛える必要がある。それでは立派な民兵になれな
いよ、と言った。私は余計なお世話だと思いつつ、首を
縦に振るか横に振るか迷っていた。
山本かずこ『真・将門記 桔梗一輪捧げ申し候』
小説『真・将門記 桔梗一輪捧げ申し候』は、平安時代の武将、平将門の戦闘の記録『将門記』を基に、真(まこと)の将門の姿をいまの世に伝える真実の書です。「生き延びよ! そなただけでも生き延びねばならぬ! 生きて、いつの日か我らが真を伝えねばならぬ!」と弟・将文に托した将門の言葉が、平成のいまの世にも聞こえてきます。将門の真実の声が読者の魂に届くことを願って刊行いたします。
● いくつもの真実が、明らかになる。
□ 父の死、母の死の真実□伯父たちから命を狙われたことの真実□妻、桔梗の真実□ 残党狩りの真実□弟、平将文だけが生き延びたことの真実□会津、相馬野馬追の真実□私君、藤原忠平の真実□託された『将門記』の真実□平将門の真実……ほか
将門から、いまを生きる人たちへ 平将門
人は大地とつながって生きていることを忘れないでほしい。いまの人は、人がつくったもののなかに埋もれて、根を忘れている。
人は鳥のように飛べるわけでもなく、魚のように泳げるわけでもない。大地に感謝を忘れずに生きてほしい。
そして、人はみな友だということを身をもって知りなさい。ささいなことでも、ともに泣き笑い、歌って踊る。そういう人の子の世を生きるよろこびを、いつも腹の底から涌き起こしてほしい。 (2011.7.4)
倉田良成『詩集 小倉風体抄』
倉田良成さんの『詩集 小倉風体抄』が刊行されました。倉田さんが当サイトで不定期連載している「古今詩語」を読めば了解されるように、倉田さんは日本の古典文学への造詣を踏まえて、昔と今とを往還しつつ、詩の根源を追究されている方です。このたびの新詩集でも、倉田さんの方法は自由に生かされていて、「百人一首」の歌を冒頭に引いて綴られた「詩/物語」が35篇収められています。読むときに、この引用歌と詩との関係に注意が向きがちとなりますが、その関係は単純なものではなく、なかにはアクロバティックな仕掛けが隠されているものもあります。むしろ、それにはとらわれずに素白に読み進めていくと、「百人一首」の諸歌人、あるいは詩/物語の登場人物が、詩集という時間・空間を飛びだして、ひとつ次元を上げた時空に、「私」とともに連れだされる刹那があります。この奥行きの深さを多くの方々に味わっていただければ幸いです。以下に、詩集の冒頭に置かれた「とまをあらみ」を紹介します。
とまをあらみ
題しらず
秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ 天智天皇
己(おれ)がここに来てどれくらいになるか、ちょっと見当がつかない。川が流れるここは、見渡すかぎりの蘆原としか人は思わないだろう。けれどこんなところでも暮らしはあり、時は刻まれ、青空を行く雲を見上げることだってある。仲間には小さな畑をひらいてネギをつくり、ねこを飼っているやつもいるんだ。水は河川敷のグラウンドとか小公園の水飲み場や、併設されている公衆トイレから汲み、人目につかないところで身体だって洗うんだぜ。こういう渡世で身体が臭って、シャバの人間から忌まれたりしたらおおごとだ。ときどき街に食い物を調達しに行く己たちは、蘆原にさえいられなくなる。街にいられないからここにいるのに。己の仲間にはいろんなやつがいるけれど、同じ数だけのいろんな過去があり、そのいろんな過去は己に言わせればお定まりの、みんな似たような色をしている。聞いてもわかりきったことだから聞かないし、言っても何をどうすることもできないので言わない。それだけだ。ときどき冷たくなった躯を担架に載せられて、青シートの小屋から粛々と運び出されてゆく者もいる。己たちにとってもっとも怖ろしい、危険な季節は夏だ。どこにも居場所のない若いやつらが、世界の端っこでようやく危うい居場所を得ている己たちをこの世界から追い落とそうと、夜、大挙してやって来るのだ。やつらは彩り鋭く大きな花火を揚げ、夜の光にきらめくチェーンや鉄パイプを六波羅武者のように華麗にたばさみ、熱帯に棲む原色の鳥に似た哄笑の大音声をたてながら、まるで酔ったように、頬紅を刷いたように、上気して、己たちを凹凸のない一個の赤く濡れた肉塊という存在になるまで、ていねいに叩きこんでゆく。そして己たちの小屋には火が放たれる! 転がされ、針金で荒く縛られたまま、焚き木のように燃やされる、しかし己は王。この世界の旱天に雨を呼ぶため、高貴な犠牲として献げられる、己は王。この世は燃えがらとなった己の治世だ。
(2011.1.31)
平井弘之の新詩集『複数の信仰には耐えられない日蓮』
平井弘之さんの第四詩集『複数の信仰には耐えられない日蓮』が刊行されました。これは、ついになにも語らないことにおいて、ありうべき叙事詩を企図した詩集です。「長い話になるのだろうね」と、錯綜する詩行のなかに「それ」(!?)を探し求めても、「ずっと銀の浜辺が続いて」いるばかり。その反抒情の精神は読む者に強い印象を残します。そのほとんどが連作詩篇からなっていて、一篇の詩として紹介するのが難しいのですが、ここでは、「(大きな手を持った猫の旅の行方)」という詩のパート3を取り上げてみます。
(大きな手を持った猫の旅の行方)
3
張り手で叩くため
空にしゅたいせいを刻印するため
ほんとうは要らないのに
猫は大きな手を持っている
生まれ故郷はとおく離れ
桜の花のシャワーも浴びて
美に熱狂し
真実に青ざめる
大きな手を持った猫
大半の意見では失敗の猫だと云うことなんだ
だから国境を猫は跳んで
あなたに逢いに行く
手はますます大きくなる
外国に着地した大きな手を持った猫
冷たい腐植土のうえで
まずおしっこしちゃおう
ますます手は大きくなって
猫は大きな山脈になりました
ときおり山男たちは
あの張り手のこだまを聴くそうです
ほんとうは要らないのに
いまでも空は猫の手形に凹んでいます
井上摩耶の新詩集『レイルーナ』
『Look at me —たとえばな詩—』から7年。井上摩耶さんの第二詩集『レイルーナ —はかない愛のたとえばな詩—』が出版されました。この詩集は、「出会いと別れを繰り返して、思い出がまた私を明日へとつなぐ日々の中で」感じ、考えたことをことばにしたもので、いまを生きる者の心の劇が物語のように綴られる、愛の詩集です。「時間という線は/私を助けない」という詩句を記した著者がやがて次のような短詩にたどりつくとき、「思い出がまた私を明日へとつなぐ」ことを読む者は知らされます。
傷だらけの心は
もう傷つく場所さえないくらい
でも、それは
キラキラした
手彫りのまぁるい
ペンダントのよう……
中村剛彦の新詩集『生の泉』
中村剛彦さんの第二詩集『生の泉』が刊行されました。「かつての私の影たちへの決別の意を込め」て出版された第一詩集『壜の中の炎』から7年。友人の突然の死がもたらした内省は、「何のために詩を書くのか」「詩とは何なのか」という問いをさらに深化させて、一冊の詩集を生みました。「もし君が本当に詩を書こうとするならば/君はすべての記憶を裏切り続けるしかない」。生と死、夢と現実、聖と俗、善と悪……抒情と反抒情のクリティカルな弁証法が織りなすことばのタペストリーは読む者を捉えて離しません。いま当HPで連載されている「中村剛彦の『甦る詩人たち』」と併せて読まれることをおすすめします。
下に紹介するのは、集中の抒情的な一篇です。
山下公園の回想
泳いでいる
僕の周りでは君は笑いながら
ときに泣きながら
鷗のように両手を大きく振って
泡立つ僕のこころの傷に海風を送る
むかし、君とともに遊覧船に乗って
橋をくぐった
温かい君の手が僕の未熟な詩を包んだ
君は死んだんだ
君が愛した鳩たちも死んだ
僕はとても悲しんだ気もするが
どこへ言葉の帆を向けても
君がいる 泳いでついてくる
僕は帆を高く張る
君の声を孕んで
新しい言葉の廃墟に向かって
一人波に体をあずける
君はどこにいても手を振っている
そんなときに満ちてくる孤独の幸福
いまこそ生の航路が
僕には見えるようだ
『カワカマス ジェイムズ・ライト詩篇』(伊藤博明訳)刊行
昨年、詩集『scintilla/閃光』を上梓された伊藤博明さんの新著、『カワカマス ジェイムズ・ライト詩篇』が刊行されました。ジェイムズ・ライト(1927—1980)は、エリオットやパウンドなどの知的な詩のあり方に対して新たな詩的感性を提示したアメリカの詩人たちのひとりで、1972年にピューリッツァー賞を受賞しています。ディープ・イマジストの友人ロバート・ブライは、ライトについて次のように語っています。
「ライトの詩を読むとき、われわれは素晴らしい響きという窓を通して草原に見入ることになる。ヒメネスは生涯この輝きのなかにいた。白居易もそうだった。ウォレス・スティーブンスもその輝きに忠実だった。生涯この輝きのなかにいる詩人を、ガルシア・ロルカは天使と呼んだ。だが、ジェイムズ・ライトは天使にとどまる詩人ではなかった。彼が取った道は何だったかって? そう、彼は深呼吸をして、降りていったのだ」
孤独を幸福に転位する、知の抒情を、清新の訳で味わってください。
タイトルポエムの最後の三行は次のとおりです。
ぼくらは 魚をたべた
ぼくの身体のなかには なにかとても 美しいものが あるにちがいない
ぼくは こんなに 幸福なのだ
(「カワカマス」より)