11回山羊塾講義録

田中冬二「詩の力 近代の眼」  八木幹夫

 

 

 

今回は田中冬二という詩人について取り上げたいと思います。はじめに冬二の簡単な略歴を紹介します。一八九四年(明治二七年)十月十三日~一九八〇年(昭和五五年)四月九日。本名は田中吉之助(たなか・きちのすけ)。西脇順三郎とは同年生まれ。銀行員だった父吉次郎、母やゑの長男として福島県福島市栄町に生まれました。父吉次郎は明治財界の大物安田善治郎(冬二の母方の祖父)の知恵袋といわれた人。冬二、七歳の時に父が亡くなり、十二歳で母を相次いで病気で失ったため、上京して善治郎の要請で安田善助(母親の弟)のもとで厳しく養育されます。両国小学校、東華尋常小学校を経て、立教中学へ入学。旧制立教中学校(現立教高校)を卒業して安田銀行(現りそな銀行)に勤める。銀行勤務のかたわら詩作を始める。長野県の銀行副支店長などをし、長野には特別の愛着を持っていました。東京に勤めが変わってからも時折、山梨や長野、父の故郷富山県黒部生地(いくぢ)等へ旅をしています。一九四九年(昭和二四年)に銀行を定年退職し、新太陽社の専務取締役となる。一九七一年、日本現代詩人会会長に就任。墓地は神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目7–14 青柳寺(日蓮宗)にある。葬儀委員長は野田宇太郎。草野心平の揮毫による墓碑。向かいに漢詩人の乾直恵の墓があり、右隣には戒名、文学散歩居士の野田宇太郎の墓。享年八十五歳(草雨亭忍冬居士)。生前、住職八幡城太郎(『青芝』を主宰)との俳句交流でしばしば、この地で句会に参加しました。城太郎は俳誌『青芝』創刊、筍句会を主催。後に門下の中村菊一郎が継承。私の厚木高校の国語教師が中村菊一郎氏(現代国語・古典)です。厚高時代、中村先生に勧誘されて阿夫利嶺(あふりね)俳句短歌同好会に入会し、短歌、俳句を書き始めました。当時は国立系大学を目指している上級生らが同好会にはいて、受験勉強嫌いの私は読書とこの会で高得点をとることが唯一のストレス解消法でした。

 

冬二の俳句精神と近代性

 

冬二の俳句

「機関車の蒸気すて居り夕ざくら」「春愁を赤きポストに投函す」

相模原青柳寺 「白足袋の若き和尚や花あせび」

「夜汽車にてすぎし小駅の秋祭り」芋句会昭和二一年一〇月

「唐辛子干して障子を閉ざしけり」「春昼を居酒屋に酌み痴けいる」(「青芝」)

「筍と山椒味噌の青柳寺」(筍句会 昭和三二年四月)

「植田より植田におちる水の音」

「軒までも雪と高田の年賀状」」(「麦ほこり」越後高田堀口大学先生の賀状に触発されて)

ランダムに全集の句集から引用しましたが、冬二の俳句は必ずしも面白い俳句が多いとは言えない。俳句における、その正確な描写は詩には好影響を与えたであろうが、俳句そのものは冬二の詩的世界を盛りきれなかったといった方が適切である。田中冬二の詩を読み解く上では、俳句の持つ簡潔明瞭さとイメージの絵画性、近代的な斬新さに好影響を受けています。近代人の優れた批評性に支えられた詩篇の描写は非常に魅力的です。具体例として詩作品を紹介します。福島県で生まれた田中がしばしば夢想の中で戻っていく故郷は次のような風景の村であり、時間の中でした。

 

ふるさとにて

 

ほしがれひをやくにほひがする

ふるさとのさびしいひるめし時だ

 

板屋根に

石をのせた家々

ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする

ふるさとのさびしいひるめし時だ

 

がらんとしたしろい街道を

山の雪売りが ひとりあるいてゐる

                  少年の日郷土越中にて

 

「干しカレイを焼く匂い」「板屋根に石をのせた家」「山の雪売り」。無駄な言葉が排されて必要最小限。それらが見事に越中の風土を象徴する。「少年の日」と最後に詞書きがあります。これは或る過去の記憶を切り取った風景で、あきらかに都会にはないものです。「ほそぼそと」カレイを焼く匂いが今にもこちらに届く。干した保存食を食べる。夏が来て、がらんとした街道を山から切り出した雪を村人に売る商売。「雪売り」とはなんと素敵な職業でしょう。夏の到来を告げる物売り。鮮明です。ふるさとを懐かしがる心情は表現としては省かれている。「ふるさとのさびしいひるめし時だ」この言葉に冬二が託した越中のすべてがある。「さびしい」とあるが少年時の冬二にはそのように感じとる客観的な視野はありません。これは都市生活を経験し、自分を相対化する近代人の眼がなければ描き切ることはできない。冬二は幼くして両親(父を七歳、母を一二歳で)を失い、東京の叔父に引き取られて立教中学に通い、祖父安田善治郎が起業した安田銀行に勤めました。幼年期を過ごした「ふるさと」は都会生活の中で溜め込むようにイメージがふくらみ、その後、山梨や長野県への旅の詩篇に結晶します。

冬二は昭和十一年の詩集「郷里」、「青い夜道」でその詩篇を普遍的なものにしたと言われますが、次の作品は三八歳頃に一人で新潟と長野県境にある北安曇の小谷温泉に行ったときのものです。「こたに」ではなく「おたり」と読みます。

 

小谷温泉

 

ごろりごろりごろり

石臼に夜があける

 

豆腐が山のつめたい水に

ざぶんざぶんととびこむ

     

県境の小谷温泉の山田旅館の山側の一角にこの詩碑が建っています。気をつけなければ見落としそうな場所です。安曇野の詩人井上輝夫さんの案内がなければ生涯出会うことのなかった詩かもしれません。たった四行の作品ですが、胸に染みとおる早朝の気配。八年ほど前の秋、井上輝夫さんの四駆に乗ってここに来ました。四駆車は山道を軽快に登りました。旅館は「千と千尋の神隠し」の「湯婆婆」が出てきそうな古風な佇まい。木造の山田旅館の廊下は歩くたびにぎしぎしと鳴る。一風呂浴びて私たちは明るいうちに山を下りました。

詩の内容は読んだとおりです。山深いこの温泉に来た時、湯を浴び、夕食後、疲れて早々に眠ったのでしょう。翌朝早くから石臼を挽く音が枕元に響いてくる。宿の人が投宿した客のために豆を挽いている。最初の二行と後半の二行には時間の経過が省略されています。茹でられた豆が挽かれ、ニガリが加えられ、固まると包丁が入る。それを冷水に沈ませる。

冬の間近い季節、指の切れそうな水に豆腐が一つ一つ飛び込んでいく。豆腐がまるで自らの意志を持つかのようです。擬音の「ごろりごろりごろり」と「ざぶんざぶん」が効果的。山と渓流と温泉の他に何もない渓谷の宿です。清涼な空気まで伝わってきます。朝食に出されるであろう豆腐の味は言わずもがな。冬二は詩を極限までカットします。余分な言葉を排除する。説明的な語句がいっさい消えている。写真の映像のようでもあるが、そこに音も匂いも時間も伴っている。

 冬二がこうした場所を訪れたのには理由があります。若い頃から銀行勤めの父親の転勤にともなってあちこちに住んだが、父の故郷である富山県黒部は山深い町でした。後年、父と同じ銀行マンとして東京勤務した冬二はたびたび思い立って、山深い温泉地や宿を旅することが多かった。望郷の思いが冬二を突き動かしていたのでしょうか。信州は彼が勤務した安田銀行時代のなじみの場所。世界金融恐慌の起きた時代に勤勉な銀行マンとして働いたが、近代的な環境で育ちつつも、故郷の風土への郷愁を終生持ち続け、詩を手放すことのない詩人でした。次の作品も温泉の詩です。

 

くずの花

 

ぢぢいと ばばあが

だまって 湯にはひってゐる

山の湯のくずの花

山の湯のくずの花

              黒薙温泉

 

  *富山県黒部市宇奈月温泉(旧国越中)にある温泉。黒部峡谷鉄道本線黒薙駅下車。

   駅からは徒歩20分。展望は良いが起伏が激しい登山道。(詩集 『青い夜道』より)

 

こんな平明で含蓄のある詩は珍しい。「ぢぢい・ばばあ」という呼称。老夫婦への敬意がにじむ呼び方です。作者はピタリとこの湯船に入っている老夫婦に照準を合わせる。混浴の、衒いのない気配。長い年月を二人は共に生きてきた。「だまって」にその全てがある。なんの会話もないが、気心は通じている。山の湯である。そしてはらはらと湯船に落ちてくる葛の花びら。(赤紫の花の色に特徴がある)初夏のシンとした気配。温泉の匂いと湯煙。黒薙(くろなぎ)という土地が彷彿とする。短く簡潔だが、老夫婦をつつむ湯煙とそれを描き切る冬二の眼差しに胸打たれます。表現者の寡黙な覚悟がある。

 

闇の深さ

 

青い夜道

 

いっぱいの星だ

くらい夜みちは

星雲の中へはひりさうだ

とほい村は

青いあられ酒を あびてゐる

 

ぼむ ぼうむ ぼむ

 

町で修繕(なお)した時計を

風呂敷包に背負った少年がゆく

 

ぼむ ぼむ ぼうむ ぼむ・・・・・

 

ねむくなった星が

水気を孕んで下りてくる

あんまり星が たくさんなので

白い穀倉のある村への路を迷ひさうだ

 

冬二の詩を読むといつも感じるのはそこに漆黒の闇があるということです。決して陰湿な闇ではなく鮮やかな闇の深さなのです。上掲の作品は第一詩集の題名となったもの。青い夜道を少年が背に時計を背負って村へ帰るという設定。背中の柱時計は「ぼむ ぼむ  ぼうむ ぼむ」と生き物のように鳴る。星が空にこんなに溢れている時代があったのです。あられ酒とは焼酎に粕やあられ餅を入れ、発酵させたもの。みりんに似たもの。青いというので村が遠くかすんでいる様子をいうのでしょう。この詩にある世界は、天上の星座に対し、一方に地上の漆黒の闇を暗示しているとも言えます。闇の重要性は今日では軽んじられているが、冬二の詩には都市部の「照明の明るさ」と田舎の「闇の深さ」、「都会の便利さ」と「田舎の不便さ」が常に対称性を帯びて表現されていることに気付きます。しかもこの闇や不便さは冬二にとっては心地よいものなのです。ことさらな教訓的言辞はないが、描写の的確さが詩を強靱にしている。時計は文明の象徴でもあるが、その時計を町で直してもらい、背負いつつ村へ帰っていく少年。途中、夜道の美しさに目を奪われる光景が美しい。闇の深さが鮮明にする青くかすむ遠い村の明り。時計が鳴る。

 

美しき夕暮れ

 

山は美しい夕焼
女はナプキンをたたんでゐる
椅子にかけた その女は膝を組み重ねる
すると腿のあたりが はっきりして燃え上るやうだ
食卓 頑丈で磨きのよくかかった栗の木の食卓に
白い皿 ぎんのスプーン ナイフ フォーク
未だあかるい厨房では 姫鱒(ひめます)をボイルしてゐる
夕暮の空気に 女の髪の毛がシトロンのやうに匂い 快い興奮と
何かしら身うちに

(ほて)るものをわきたてる
山は美しい夕暮
女はナプキンに 美しい夕焼をたたんでゐる

              (一九六一年 詩集『晩春の日に』)

 

 「女はナプキンに 美しい夕焼をたたんでゐる」こんな一行にも、モダニストとしての田中を垣間見ることができるでしょう。夕暮が迫ってくるレストランでの状景を見事に表現した作品です。田中の五感は対象を捉える時、研ぎ澄まされる。視覚、嗅覚、触覚、味覚、そして時間の推移。それらが読者に懐かしいデジャヴを覚えさせるのです。

 

断腸の思い

 

返らぬ日の歌

 

愉しかるべきタ餉の食卓に
いささかのことに妻と争ひ
戸外に出づれば
戸外はかたちのよくなりかけし月の夜なり
かくてわれ美しの月の夜を
ひとりさまよひゆくほどに
かの食卓に毀せし皿のごと
破れしわが心にも月光はしらじらとさし入るならずや

むなしき憤りのやうやくさめ恥ぢらひつ
しばし小暗き木かげに佇めばかの時幼きものの涙ぐみし妻に
とりなせる言の葉耳朶にかへり来て
わが心蕭々として襟元に易水の寒を覚ゆなり

——そのかみの幼きもの今やなし 二十二歳にして世を儚み
自らのいのちを断ちしなり 断腸の思ひす 

 
 (参考・・・易水の寒 荊軻の詩より「風蕭蕭として易水寒し壮士ひとたび去ってまた

  帰らず」)

 

こうした些細な事件は家庭生活の中ではしばしば起こることです。新聞を読みながら妻が淹れてくれたお茶が熱かったり、味噌汁で舌をヤケドしたりとか。冬二は炊きたてのご飯に腹を立てムッとして茶碗をひっくり返し、表に出た。いかにも児戯に類する行為だったと反省して月を見る。部屋を覗けば、娘が涙ぐむ妻を取りなして話しかけている。その言葉が自分の耳にはいってきて取り返しのつかない愚かなことをしてしまったと後悔。その幼い娘は二十二歳でこの世を儚み自死してしまった。という作品です。「易水の寒」とは中国の詩人荊軻が秦の始皇帝暗殺を企て、友人知己と易水という川の畔で最期の別れをするときに詠った詩で、易水の水は寒々と流れている。もう二度と戻ることはない悲壮感に満ちた思いを指す。転じて寂しさ極まる思い。ここには冬二の率直な人柄が思いがけず浮き彫りになっています。

 

 みぞれのする小さな町

 

みぞれのする町

山の町

ゐのししが さかさまにぶらさがってゐる

ゐのししのひげが こほってゐる

そのひげにこほりついた小さな町

ふるさとの山の町よ

——雪の下に 麻を煮る

 

 これもまた雪深い故郷の町をイノシシのひげの先の氷の中に映る小さな町、山の町としてとらえた作品。構図としては山の町にイノシシが逆さまにぶら下がっている景を最初に持ち出したところに斬新さがあります。しかもその髭は凍っている。凍って光る中に小さな町がある。さらに「雪の下に」麻を煮る景。寒い冬の唯一の収入の途、麻を煮て、麻糸の準備に忙しい。

 冬二の田舎を見る目は生活実感をくぐった的確で鋭い観察眼なのです。

 

 幼年

 

柿の花咲いていたりけり
そが下に幼きわれら散髪をする
機関車のやうに重きバリカンは
項にひんやりと冷たく触れ
また何となく西洋のような匂いす

やがて短く刈りあがりしに
母来たりて青き頭を撫し 胸をはだけ乳を滴らし呪して 虫に刺さるるなかれ
風邪ひくなかれと
日の光さんさんとあかるく あんずの実は熟れよき日なりき

かくて一日を遊び疲れしわれら 大き藁屋の下
南の障子を頭にただやすらかにねむりぬ           

          (詩集『花冷え』「幼年」全行 昭和十一年刊)

 

 幼年時代、母親の母乳がどんなものより貴重であったかを示す詩です。子供の頭に母乳を滴らせ子の健康安寧を祈る呪術的な風習は、既に消えてしまったが幼年時病弱であった私はかすかにこんな記憶があったような気がします。現在では車中で母親が胸をはだけて子に乳を与える光景はほとんどなくなりましたが、恥じることなく子を抱きしめる母子像こそ永遠に美しいものです。

 

冬二の詩の魅力

 こうして冬二の詩を読んでくると当然のように田舎の風景が描写されていますが、それが単なる外からの描写ではなく、内側から内面的に捉えられているところに特徴があります。また自身の少年時の記憶と田舎の土地の人々との心的な交流が自然に伝わってくるところにも魅力があります。匂いや景色や光り、日本にかつて当たり前にあった風習や光景が既に昭和の初年には消えつつあったことを思うと冬二はそれらを捉え直し、その光景を永遠化したとも言えます。この風景の捉え方は一見、月並みに見えますが、かつて生きた日本人の原風景が詩人の言葉の喚起力によって蘇る。詩の細部にはすでに消えてしまった事象や物があるのですが、それを想像力でよみがえらせた功績は大きい。近代の目で消えゆく日本を捉えた詩篇はカメラの目のようですが、そこに匂いや郷愁や風や時の推移が加わる点に大きな魅力があると言えるでしょう。本日はこれで私のお喋りを終わります。

  (2018年8月4日(土)池袋・東京芸術劇場ミーティングルーム5にて)

 

 

 *参考文献 田中冬二全集三巻(筑摩書房)

   山本つぼみ『評伝八幡城太郎』(角川書店)